このページの記事目次 (カテゴリー: 映画・DVD)
- 映画【ウィング・コマンダー】 [2021/04/30]
- 映画【ブレア・ウィッチ・プロジェクト】と【ブレア・ウィッチ(2016)】 [2020/04/24]
- 映画【DOOM/ドゥーム: アナイアレーション】 [2020/01/20]
- 映画【DOOM / ドゥーム】 [2020/01/17]
- 映画【ブッシュマン キョンシーアフリカへ行く】 [2017/07/03]
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ピカチュウやソニックを始めとして、今でこそゲームを原作とした映画は傑作良作佳作に事欠かなくなっているが、これが90年代はそりゃあヒドいものだった。
コントローラを握ったこともないようなプロデューサーが雑に版権を買い上げて、仕事と名が付けばなんでもやるような監督に放り投げて誰も得しないような映画が一本でき上がる。
『スーパーマリオブラザーズ』のような、本来なら大切に扱われてしかるようなタイトルでさえも、デニス・ホッパーのクッパ大王に着地してしまうのだから、もう何をか言わんやである。

この頃の国内外のゲーム原作映画でそれなりに良かったのは「ときめきメモリアル」だが、まぁあれは原作とは全然関係ないような普通の青春映画だし、ときメモのキーワードに釣られて劇場に足を運んだ人間にとっては、あんな眩しい等身大の青春物語は嫌がらせ以外の何ものでもなかったであろう。
とにかく映画会社のオフィスでふんぞり返っているようなプロデューサーに任せたらロクなことはない。だったら自分でどうにかしちゃおう。
そんなある意味間違っていない考えに至ったのは、スペースコンバットゲームの金字塔『Wing Commander』を創り上げたゲームクリエイター、クリス・ロバーツだ。

ロバーツは1968年の生まれ。この世代のゲーム業界人は映画をクリエイティブの原体験にしている場合が多く、また当時のゲームというジャンルの世間的評価の低さと相まって、映画に対するコンプレックスを隠せない人も結構いたりする。
クリス・ロバーツも正にそんなタイプの人であった。

ウィングコマンダーシリーズは第3作の『Wing Commander Ⅲ: Heart of the Tiger』から、マーク・ハミルをキャストに迎えて映画顔負けの実写ムービーパートを盛り込むようになったのだが、それを監修しているうちに「やっぱりオレは映画を撮るべき人間なのだ」という自我が芽生えてしまったのであろうか。
1996年の『Wing Commander IV: The Price of Freedom』でゲームとしてのシリーズに一旦区切りをつけると、彼は自らウィングコマンダーの映画化に敢然と打って出たのであった。
メガホンを握るのは? もちろんクリス・ロバーツその人である。

しかしゲームのカットシーンと2時間弱の劇映画は、やはり勝手が違った。
オリジナルの設定をベースに、タイガークロウに新たに赴任してきたルーキーパイロットが活躍するストーリーは、原作ゲームのファンには取っ付きのよいものかもしれないが、劇場に足を運ぶ観客の大半を占めるウィングコマンダーを知らない人たちにとっては明らかにパンチ不足。
山場に欠け良く言えば平坦、悪く言えばただダラダラとしている物語展開に、見どころが決定的に不足しているSFXシーンと、事前に多くの人が予想したとおり、スター・ウォーズもどきのB級SF映画に落ち着いてしまったのであった。

フレディ・プリンゼ・ジュニアやリチャード・ディレインなど、イマイチ華に乏しい主役級のキャスティングも、映画界にさまよい込んだばかりなクリス・ロバーツの限界を物語っている感がある。
原作ゲームと同様母艦となる空母タイガークロウの艦長役を「名探偵ポワロ」のデヴィッド・スーシェが務めているのが、唯一目を引く配役であろうか。

興行的にも批評的にも惨憺たる結果に終わった映画版「ウィング・コマンダー」であったが、この作品を足がかりにクリス・ロバーツは映画界に軸足を移し、制作会社を立ち上げて以後はプロデューサーとして数本の映画に関わることになる。
日本でのDVDソフト化も、まだソフトの大半がジュエルケースでリリースされていた市場勃興期に一度だけ為されたのみ。
この国内版ソフト、ゲーム版『ウィングコマンダー』のことを詳細に解説したデジタルパンフレットが収録されていることが、数少ないポイントであろうか。
(記事編集) https://bonkura360.blog.fc2.com/blog-entry-3009.html
2021/04/30 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |
アメリカのメリーランド州にはブラックヒルズといういわくつきの深い森があって、そこでは何人もの人間が死んだり行方不明になったりしている。
オレの中では半分フィクションで半分ノンフィクションのお話だ。
時は1999年の終わり、アメリカで一世を風靡したこのお話は、勢いをそのままに日本にもやってきた。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」は劇映画なんかじゃない。
不穏な噂に事欠かない森を浮かれた学生たちが自主制作のドキュメンタリー映画の撮影に訪れ、そのまま消息を絶ち後に遺留品だけが発見された。
その中にあったフィルムを再編集した、そんな触れ込みの映像が一般的な劇映画の体をなしてるわけもない。
なにせこの映像の大半は学生たちが森の中でだらだら迷い続けているだけなのだから。
でもその一見冗長な映像は、怪談フォークロアが大好きで心霊スポットをよくのこのこ訪れていたオレにとっては、とても身につまされるものだった。
まだネットがそこまで一般的にならず、SNSはおろかブログすらも広まっていなかった時代において、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」は都市伝説の極めて手の込んだ共有であった。
そのプロモーションは本国のそれに倣ったのか、魔女の森に関する因縁話をあらかじめ人々に共有させて外堀から埋めてゆくスタイルが取られた。
180年前の少女失踪事件。それから約60年後、コフィンロックと呼ばれる場所で村人の惨殺死体が発見された事件。そして1941年、森の中の館で起こったラスティン・パー事件。
ブラックヒルズで起こったこれら主要な事件をあらかじめ頭に刷り込まされた上で、オレはこの魔女の森の最新因縁話の遺留映像と映画館の暗闇で向き合ったのだった。

「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」を虚仮威しと呼ぶのは簡単だ。怪談フォークロアなんてそもそもすべてそんなものだから。
オレだってオカルト心霊話をホントに信じているわけじゃない。でもあえてその嘘に乗る。乗って怪談話や心霊スポット巡りを大の男が半分ビビりながら楽しむ。
ましてや「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」はすべてが完全なフィクションだ。
しかしこの映画はフィクションであること、劇映画であることからの外れ方、逸脱の仕方がとても巧妙だ。

2016年に公開された「ブレア・ウィッチ」は「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の(一応)正統な続編だが、この両者を観比べると「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の疑似ドキュメンタリーとしての巧妙さが一層際立つ。
失踪した学生の一人ヘザーの年の離れた弟が、仲間と共にブラックヒルズを訪れる2016年版「ブレア・ウィッチ」は、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のフォーマットを何から何までなぞった作品だが、スマホやgoproなど劇中の撮影機材が大幅に進化したにも関わらず(だからこそと言うべきかも)、この不肖の弟は姉に及ぶべくもない。
2016年版「ブレア・ウィッチ」の映像は写しすぎる、説明しすぎる、饒舌に語りすぎる。
これは「ブレア・ウィッチ」に留まらず、「クローバーフィールド」から最近の和製心霊ものまであらゆるモキュメンタリー映画に共通したことだけど、当事者が写したフィルムを建前とする劇映画としては限定的な手段を取っているが故に、不自然な演出過多になって作り物っぽさを逆に際立たせてしまうことが多い。
しかし本家「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」はこの点を極めて抑制している。
フィクション創作を齧った者ならば、どうしても語りたがらずにはいられないような所でも、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」は潔く投げっぱなしにしている。

曖昧なところは曖昧なまま放ったらかし決して明晰には語らない。
劇映画としての役割を半ば放棄して怪談フォークロアの語り口に忠実に徹したことで、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」は、なんとも言いようのないもやっとした後味の悪さを残すフィルムとして、ホラー映画史にその名を刻み込んだ。
そんな自分たちの資質を知った上でか、あるいは一生暮らせるだけの金を得てしまったからか、この超低予算映画の共同監督たちはこれ一本を残しただけで映画界の表舞台から身を引いてしまう。
これも都市伝説の後始末としては、なんだかよくできたエピソードだ。
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2020/04/24 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |
ロック様主演の2005年版映画「DOOM / ドゥーム」からはや10数年。
リブート版ゲームのヒットを受けてまた性懲りもなく立ち上がったDOOMの映画化企画。
しかしそのキャストは主演のエイミー・マンソンを始め、ルーク・アレン・ゲイルにハードロックバンドLetters from the Fireのボーカリストでもあるニナ・バーグマンと、2005年版よりも大幅に地味化した顔ぶれ。
配給側もさすがにセールスポイントに窮したのか、「ドゥエイン・ジョンソン主演で大ヒットしたシリーズの最新作!」なんて売り文句を無理やりひねり出してきた。
あのな、10何年も前のことだからって強引に盛るんじゃねえ! 大ヒットした覚えなんかこれっぽっちもねえぞ!
売り文句はさらに「前作の製作陣が再び集結!遺伝子を本作にも注入している」とヤケクソに続き、その前作を知る者は「集結しちゃまずいだろ!」「注入しちゃまずいだろ!」「そもそもそれをセールスポイントにしちゃまずいだろ!」と、まずいの多重奏で迎えるのであった。
そんな観る前からこちらを不安にさせるDOOM映画の最新作「DOOM/ドゥーム: アナイアレーション」。
火星に施設を展開する軍産複合体UAC。それに所属するスペースマリーンチームが衛星フォボスに向かったはいいが、赴任先の研究施設は通信途絶状態。
実は極秘研究の過程で地獄へのゲートを開いていしまい、施設はのっぴきならない状態になっていた。
そんなわけでゾンビ化した施設職員たちとスペースマリーンチームとの死闘がおっ始まるわけだが、結論を言うと、確かにキャスティング面では落ちるものの、ロック様版よりはるかにちゃんとDOOMしている。
物語の中心になるのはヘルズゲートだし、BFGやキーカード、チェーンソーといった原作ゲームではおなじみのアイテムも、物語にきちんと沿った形で登場する。
海兵隊の名を借りたスチャラカ集団であった前作のチームに対して、この「アナイアレーション」のスペースマリーンチームは曲がりなりにも未来の海兵隊の雰囲気を出している。
だけどSFホラーアクション映画として面白いかと言われると、「うーん…………、普通!」としか返しようがないくらい中庸なデキであることもまた確かで、まぁそんなところもゲーム原作映画らしいというか、このジャンルが現在のアメコミ原作映画のような隆盛を迎えるのも、まだまだ先の話なのかなあと思わずにはいられないのであった。
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2020/01/20 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |
DOOMはゲーム史にとって忌まわしき存在。ではそのDOOMの歴史の中でもっとも忌まわしいDOOMは何か?
初代? 一番血みどろな最新作? ニンテンドウ64を血に染めたDOOM64?
いや、ファンにとってもっとも忌々しいDOOMは、やはり多くの人をずっこけさせた、この映画版をおいて他にはないだろう。
本国での公開は2005年末。ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の「バイオハザード」やアンジェリーナ・ジョリー主演の「トゥームレイダー」など良作も出始め、ゲーム原作映画といえば色物であった時代も過去のものになりつつあった頃。
しかしカール・アーバン、ロザムンド・パイクと並ぶ、それなりの顔ではあるんだけどいまいち華に欠ける出演者にどことなく不安を覚える。
そしてキャストのトップに名を飾るのはザ・ロックことロック様。
だが今でこそドウェイン・ジョンソン名義で押しも押されぬトップアクターの地位を築いているロック様だが、まだこの頃は"プロレスラーの色物キャスティング"の印象が強かった時代だ。
そのロック様を隊長とする海兵隊チーム。白人からアジア系と人種も適度にバリエーションがあり、信心深い堅物からこれが初任務の小僧っ子とキャラクターも多彩。というか色んなアクション映画でさんざん使い古されて、もはや手垢にまみれた編成。
そんな既視感バリバリのチームが送られたのは、救援信号を発してきた火星の研究所。
ロック様率いる部隊は、そこでクリーチャー化した職員たちに遭遇し、一人、また一人と斃れていくのであった……、って、頼むからDOOMやってくんねえかなあ?
いや、『DOOM 3』を下敷きにしたのは分かるんだけど、ぶっちゃけ『DOOM 3』のプロットって、ありがちなSFホラー映画を元にしたようなところがあるから、ぐるっと一周回ってそれを再び映画でやられても困るんだよ。
途中なんの伏線もなしにBFG9000(DOOMシリーズにおける最強武器)が出てきて、ロック様それをぶっ放してご満悦なんてシーンが出てくるんだけど、それも製作者側の「これを出しときゃ原作ゲームファンへの義理もとりあえず立つんだろ?」程度の意識しか感じられず、案の定その後はストーリー的にまったく意味のない存在に。
物語が進むにつれてどんどんキ……、いや、エキセントリック度を増していくロック様が唯一と言っていい見どころではあるんだけど、こっちはロック様ではなくDOOMを目当てに観ているわけで。
そんなこちらの「DOOMやってくんねえかなあ」気分を見越したかのように終盤に炸裂するのは、劇場を失笑の渦に巻き込んだ伝説の一人称視点パート。
これはFPSのプレイ視点をそのまま実写映像化したようなパートが、なんの前触れもなく唐突に繰り広げられるシロモノ。
ご丁寧に今まで劇中に一度たりとて出ていなかったチェンソーまで無理やり登場させる始末で、ごくありふれたB級SFホラー映画の中に忽然と登場する異形の映像に、観ているこっちは「DOOMやれってそういう意味じゃねえんだよ!!」と、椅子の上で憤るしかなかったのであった。
(記事編集) https://bonkura360.blog.fc2.com/blog-entry-2864.html
2020/01/17 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |
映画「霊幻道士」の予想外のヒットと、キョンシーというキャラクターの急速な認知。その後に出てくるのは、そう、際限ない雨後の筍、柳の下のどじょうだ。
なにせ両手を前に突き出しぴょんぴょん跳ねてるやつを出すだけでキョンシー映画として成立してしまうのだから、これほど楽な話はない。
香港は元より、台湾、日本、フィリピンと、アジアのありとあらゆる国から登場した無数のパチキョンシー映画たち。
その中身もキョンシーがロボコップ(のパチモノ)と絡んだり、ニンジャと絡んだり、セクシー女優と絡んだりと、ゲテモノ同士の近親交配のオンパレード。

アフリカはコイサン語族のニカウさんは、キョンシーと同じく80年代の映画界に瞬間的なブームを巻き起こしたキャラクター。
そんな美味しい人物をアジアの映画屋魂が放っておくはずもなく、さっそくキョンシーと掛け合わせてはい一本と相成るのであった。
そんなキワモノに出て道士ツラするのはどんなマヌケかと思いきや、これがなんと本家「霊幻道士」シリーズの最重要人物ラム・チェンイン。
なんのことはない。キョンシー狂騒の煽りを受けて、本家の「霊幻道士」シリーズも、回を重ねるごとに着実にゲテモノ化を極めていったであった。
ロンドンのオークション会場でご先祖様のミイラを競り落とした香港のドラ息子とお付きの道士様。
しかし、帰りの飛行機がアフリカ上空で故障。パラシュートは2つしかないからと、まずはキョンシーとなったご先祖様のミイラをダイレクトに投下。
その下に居たのは我らがニカウさん。
なにせ空から落ちてきたモノは、たとえコーラの空き瓶であろうと神様認定しちゃうお方だ。落ちてきた死体を新しい神様だと村に連れ帰っちゃっても、なんの不思議もない。

一方、遅れて着地した道士様たちは、素敵な野生動物様たちのご歓待を受け、ライオンに追いかけられたり、サイと方術で闘ったりなど、ベタなアフリカネタをさんざん展開した後、やっとブッシュマンと接触。
「これはうちのご先祖様だから」「オラたちの神様をどこに連れてこうってんだ」などと、大岡越前でも裁ききれないようなキョンシーの取り合いを演ずる。
そこにやってきたのが、悪い白人とその手下の悪い部族のご一行。
キョンシーと道士様はブッシュマンに加勢して戦い(ブッシュマン、ステロタイプな悪い白人、ズールー族、キョンシー、カンフー、方術が交錯する乱戦は、限りなくカオスだ)、悪い呪術師の呼び出したアフリカンゾンビとキョンシーの東西死体合戦まで勃発(巨漢のアフリカンゾンビにびびるキョンシーが、今まで自分を慕ってくれたブッシュマンの子供たちが失望する様子をみて、勇気を出してアフリカンゾンビにぴょんぴょん突進するシーンは、ほんのちょっぴりほろっとさせられる)。
そして道士様は最後の手段として、ブルース・リーの霊を呼び出しニカウさんに憑依させる荒業に打って出るのだった。

この後の観客に残されているのは、怪鳥音を轟かせたり、鼻を擦りあげたり、相手を踏みつけて悲しみの表情で絶叫したりなど、やりたい放題のニカウさんブルース・リー完コピ物真似芸を、呆けて目でただ見つめることだけである。
キョンシーがアフリカの大地をぴょんぴょん跳ね回っている光景だけでも、もうお腹が一杯なのに、さらにダメ押しのようなブルース・ニカウ・リーの登場。
こんな強力キャラを前に、基本的なペースをまったく揺るがさないラム・チェンイン道士様もさすがなら、ちっともキャラ負けしていないキョンシーもさすがである。
たとえ瞬間的であろうと、起こしたブームはダテではないのだ。
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2017/07/03 | Comment (2) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |