ボンクラ360魂Xbox Oneとの蜜月の日々 

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【ウエーブレース64】64の代表作

   ↑  2017/04/06 (木)  カテゴリー: SFC&N64
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ロンチから3ヶ月間音沙汰なし。今の時代ならばしょうもないまとめブログの槍玉に挙げられそうな話だが、ともかくニンテンドウ64のソフト発売間隔は、悠長なんて言葉じゃ生温いペースだった。
3ヶ月も間が開けば、いくら渾身の『スーパーマリオ64』もいい加減遊び飽きるし、新たな遊びの形を提言した個性的な64コントローラも、単なる風変わりなオブジェと化してしまう。
プレステとサターンが熾烈な戦いを繰り広げている中、任天堂、ホントにやる気あるのか?と悶々とするユーザーのもとに届けられた64久々のタイトルは任天堂の本気。
そしてニンテンドウ64の理想を、『スーパーマリオ64』以上に分かりやすく噛み砕いて提供したソフトであった。
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その舞台となるのはデジタルの水面。
96年当時、CGによる水の表現は、かなりハードルの高い課題であった。
そして数多のソフトが"水場を模した青っぽい平面"で留まる中、任天堂は64の実力を、この水面表現に余さず注ぎ込んできた。
打ち寄せては引く波。うねる波紋と共に現れては消えてゆく白い泡立ち。ビーチ、港湾、湖、運河、様々なシチュエーションで再現された"生きた水面"。
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それは見た目だけではない。
浮かぶはカワサキの水上バイク。その操縦を司る3Dスティックに指を添えれば、生きた水の感覚がダイレクトに腕に伝わってくるだろう。
力を入れたスティックに反応して、ずずっと軽く水に沈み込む水上バイク。横からやって来た波が、今度はバイクを上に押し上げる。
水面は常に表情を変える。そしてニンテンドウ64の底知れぬポテンシャルは、その一つとして同じ表情は見せない水面を、当時としては驚くべきクオリティで表現してきた。
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変わるのは水面だけではない。快晴の空の下、あるいは水平線に沈みゆく夕陽に見守られて。
一周目には湖面を深く覆っていた霧が、次の周回は綺麗に晴れ、そして霧の中ではうすぼんやりだった湖の景色がくっきりと姿を表わす。
64の豊穣な色表現に支えられた美しいロケーションも、これまた表情が多彩であった。
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奔放に動く水面を押さえつけ、あるいは荒れ狂う波に身を任せ、陸と違って一筋縄ではいかないコースを捌く手綱は3Dスティックの繊細なコントロール。
3ヶ月間の待ちぼうけの価値は充分すぎるくらいあった、水上レースゲームのエポックにして金字塔。
後に振動パックに対応したバージョンが発売されたが、そんな追加オプションがなくとも、水の上で揺られ揉まれる感覚は、個性的なコントローラを通してしっかりと感じられた。
ニンテンドウ64を代表する、そして64というハードの魅力をもっとも端的に伝える、そして何故だかセガアーケードっぽいテイストもちらっと垣間見えたりする名作。

 

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2017/04/06 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

【64花札 天使の約束】少数精鋭主義の極北

   ↑  2017/03/12 (日)  カテゴリー: SFC&N64
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ニンテンドウ64のソフト施策でも一番特徴的だったのは、ラインナップの少数精鋭主義だ。
90年代の任天堂は、クオリティの低いソフトが多く出回ることによって市場に悪影響をもたらす、いわゆるアタリショックの危険性を一貫して唱えてきた。
そしてニンテンドウ64では、これまでの野放図なライセンシーから一転、サードパーティーのソフトに一定のクオリティコントロールを求めて品質の厳選を目論んだ。
しかしそのQCを求めるに足るメーカーたちの多くは、64のソフト開発に関わるコストやリスク、あるいは任天堂による必要以上の管理を嫌い、PSやサターンなどの新たな選択肢に軸足を移してしまう。
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そして自陣に頼んでもないのに居残り続けたのは、「とりあえず麻雀でいいすか?」だの、「相撲と恋愛シミュレーションを合体させましょう!」だの、「テレビでやってるイライラ棒って知ってます? とりあえずアレで一本作ったろと思うんですが?」だのと、クオリティコントロール以前の企画を掲げるファンキーなメーカーばかり。
これには当の任天堂も少数精鋭主義の破綻を早々と覚悟したに違いない。
結果として残ったのは、あまりにも薄いラインナップと、「アタリショックの可能性がある市場>それが無い市場」の現実であった。
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「任天堂さんといえば、やっぱ花札っすよね!」
そんな薄弱な根拠があったのがどうかは知らないが、とにかくスーファミ時代のビジネス慣習そのままに薄いラインナップの中に割り込んできた、ニンテンドウ64の理念からはもっともかけ離れたところにいるソフト、その名は『64花札 天使の約束』。
パッケージの絵を見ただけで早くも肩から必要以上に力が抜けていく気がするが、その中身もスーファミ時代の「とりあえずなんか出しときゃある程度の数は捌けるだろ」スピリットからビタ一文(花札ソフトだけに)進化していない問題児だ。
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「趣味は花札! 渋いだろ!」
開幕早々のたまう18才の主人公。そのストーリーモードの導線はと言えば、"10数年前に、この街の野原である娘と約束を交わしたが、その野原がどこだか思い出せない"。
野原の場所を求めて待ち行く人々に無差別に絡みだす主人公。その後の流れは、そう、「教えたくない」「じゃあ花札で勝ったら教えろ」の定番パターン。
早くもソフトのクオリティに対して何を言ってもムダな状態だ。
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花札通り魔と化して親子連れにすらケンカをふっかける凶獣主人公に対して、その相手たちも負けてはいない。
自分の公務を忘れてこいこいにうつつを抜かした挙句、負けると「お前もしかして犯罪者だな!」と豹変する警察官に、初対面の人間に「おいちょかぶで勝ったらカネを貸してくれ」とナチュラルなカツアゲをふっかけるギャル。
その有様に任天堂も「もうそういうのはソニーさんやセガさんのとこでやってくれませんか?」なんて本音を、ぺらぺらな64のソフトラインナップと天秤にかけて呑み込むのがやっとであろう。
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なんかもう任天堂に代わって、「少数精鋭主義なめるな!」と記されたジャンパーでも着て発売元のアルトロンに押しかけたくもなってくるが、しかしこんなスーファミやPSならば埋没して誰からも振り返られないようなソフトでも、他に代替のない64ソフトの売り場では、それなりのディスプレイで妙にデカいツラして自己主張するのであった。

 

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2017/03/12 | Comment (4) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

【麻雀放浪記CLASSIC】阿佐田哲也と任天堂ハード

   ↑  2017/03/09 (木)  カテゴリー: SFC&N64
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任天堂ハードのアティチュードは何よりそのコントローラに如実に現れる。
SWITCHのジョイコン、Wiiのリモコン、そしてその先駆けとなったのが、当初は突飛に見えた3D(サンディー)スティックと変則持ちの64コントローラだ。
このコントローラと新次元の3Dゲーム『スーパーマリオ64』、この2つで任天堂は実に明快に64の目指すあり方を提示したのだが、サードパーティーがそんな理想をまるで消化できず持て余す流れが始まったのも、ニンテンドウ64からだ。
両者の齟齬がくっきりと現れたのが、数少ないラインナップの中に、あまりにも偏りを見せたジャンル分布だ。
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国内で発売された64のソフトはわずか208本(64DD含む)。
その中に『スーパーマリオ64』やセカンドパーティーであったレア社のゲームに対する、サードパーティーからのアンサーと呼べるようなものはごくごくわずか。
代わりにただでさえ少ないラインナップに異常な占有率を誇るのが、麻雀や将棋といったオヤジ系のソフトだ。
いくらそれらのジャンルが、ゲームハードに実際にカネを出す親たちにそれなりの訴求力があるといっても、ものには限度というものがある。
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208本に対して麻雀ゲームの数は7本。他のハードと比較しても、かなりいびつなパーセンテージだろう。
ましてや麻雀ゲームなどそうそう何本も必要となるもんではない。ただでさえ少ないパイを、同ジャンル同士で食いつぶし合い。
「こんなことさせるために64造ったんじゃないんだけどな……」
生みの親である任天堂の胸中は、おそらくこんな感じだったのかもしれない。
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そのKYな麻雀タイトルの中でも飛び抜けて空気を読んでいない1本はfromイマジニア。
戦後間もない焼け跡だらけ東京、幅を利かす進駐軍、闇市、チンチロリン村、ブー麻雀、そしてイカサマ。阿佐田哲也の描く世界は『スーパーマリオ64』からもっともかけ離れた情景であることは間違いないだろう。
このゲーム版『麻雀放浪記CLASSIC』のベースとなったのは、その阿佐田哲也の傑作大衆小説を忠実になぞった同名コミカライズ作品。
阿佐田ワールドのコミック化といえば「哲也-雀聖と呼ばれた男」があるが、こっちはあんな少年誌連載ではない。
もっとも脂ぎっていた頃の近代麻雀オリジナルが出自。当然ギトギト度も「哲也」の比ではない。
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作画を担当した井上孝重は、当時の近代麻雀系コミック誌で小島武夫や灘麻太郎の実録ものを手がけていた劇画家。
そんな人の絵がゲーム機の画面で(しかも任天堂ハードで)展開すること自体が、ちょっとありえない話だ。
ストーリーモードも原作に準拠。開始早々片腕の復員兵が「オレは昨日からタンポポしか食ってねえ」とのたまう光景には、「頼むからここでそういうのやめてくんないかなあ……」なんて任天堂の嘆きが被さってくるようではないか。
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女衒を名乗る人物が堂々とゲーム中に登場するのも、舞台がニンテンドウ64であることを考えればとんでもないことだろう。
このなんのてらいもない阿佐田ワールド全力投球で、密かな麻雀ハード64の中でも、最もエネルギッシュな作品となった『麻雀放浪記CLASSIC』。
それにしても不思議なのは、そもそもなんでこの企画を、よりによってニンテンドウ64で押し通そうとしたのかだが。

 

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2017/03/09 | Comment (2) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

【最強羽生将棋】64負のスタート

   ↑  2017/03/07 (火)  カテゴリー: SFC&N64
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任天堂ハードの歴史。それは時代時代のデファクトスタンダードなゲーム機のあり方からの脱却の繰り返し。
その歴代ハードの中でもっとも象徴的な存在なのは、自身が絶対的なデファクトスタンダードであったファミコン、スーパーファミコンの流れから大きく舵を切ったニンテンドウ64だ。
あまりにも独創的なコンセプトやソフト戦略は、圧倒的な市場の支配者であった立場をも自ら反故にする、あまりにも大胆かつあり得ないものであった。
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しかし自ら理想郷を追い求める任天堂に対して、そうはいかないのは64をビジネス的な意味も含めて"さらにスーパーなスーパーファミコン"と単純に捉えてしまったサードパーティーたちだ。
そしてニンテンドウ64の一番の不幸は、スーファミ商売の延長を目論む守旧的なメーカーばっかりが自陣営に留まってしまったことだ。
64の少数精鋭を標榜するソフト戦略は、スーファミ時代は枯れ木も山の賑わいであったそれらのメーカーたちのソフトを、必要以上にクローズアップする結果をもたらしてしまう。
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夢の新ハード、ニンテンドウ64の船出。
オレがその日に目に焼き付いたのは、渾身の『スーパーマリオ64』でも、安定の『パイロットウイングス64』でもない。
量販店に山のように積み上げられ、発売早々ディスカウントの値札が貼られた、羽生善治が写る地味なパッケージ箱だ。
ひいてはそれがニンテンドウ64のファーストインプレッション、さらには後々まで残る64のイメージとなってしまった。
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もちろんゲーム内でファンシーな実写画像で登場しまくる羽生名人に罪はないし、ソフト自体も当時の将棋ゲームの中でも抜きん出た実力を持つ、最強の称号に相応しいものだ。
しかしわずか三本しかないロンチタイトル、そのうちの一つがいつまで経っても店頭に山積みになって、日を追うごとにワイルドな値下げがされていく状況は、ハードのイメージ的にも決して芳しいものではない。
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64の発売から三ヶ月後、ようやくロンチ第二弾の『ウェーブレース64』が着弾。
ユーザーにとっては砂漠のオアシスのような一本だったが、そこから二ヶ月また音沙汰なし。
結局ロンチの年に発売されたタイトルはわずか十本。その状況にあって『最強羽生将棋』は、一向に減る様子がないまま、値段ばかりを下げつついつまでも店頭に残り続けた。
それはせっかくのハードコンセプトの先鋭化に対して、下支えする流通戦略が旧態依然のままであったことの証明でもあった。
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激安価格で我が家にやって来た『最強羽生将棋』も、64の特徴的なコントローラと将棋の微妙な違和感くらいしか印象に残ってない。
そんな『最強羽生将棋』64哀歌のダメ押しを感じたのは、今から約十年くらい昔のこと。
秋葉原の某レトロゲームショップの入り口で、これの箱入り美品が入り口脇の段ボール箱に無造作に詰め込まれ、その横に「ご自由にお持ちください」と貼り紙された光景。
その様子にはさすがにオレもいたたまれず、足早に横を通り過ぎるしかなかったのだった。

 

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【喜国雅彦の雀闘士銅鑼王】

   ↑  2014/12/05 (金)  カテゴリー: SFC&N64
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その絵柄がどう考えたってゲームにはまったく向いていないにも関わらず、喜国雅彦が関わったゲーム作品は何故か複数に及んでいたりする。
同じギャグマンガ家系では相原コージもそのクチだが、そもそもどうしてこういう人たちにゲームキャラデザインの仕事を持ち込んだりするのだろうか。
そしてこのラインのギャグ漫画家ゲーム仕事は、これまた何故かスーパーファミコンに集中していたりして(中川いさみのゲームもあったっけ)彼らのセンスと健全なスーファミって、およそ相性が悪いような気もするのだが、まか当時はそれだけ青年・コミック誌界隈に、周囲を巻き込んで突っ走る勢いとエネルギーがあったということなのだろう。
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喜国雅彦といえば今やマラソンとミステリ本のイメージが強いが、90年前後のキクニさんは麻雀がキーワード。
別冊近代麻雀誌に連載されていた「mahjongまんが王」は、絵柄までいただいた著名マンガのパロディと、キクニさんならではのしょうもない下ネタギャグが、麻雀コミックというフォーマットの確立したジャンル上で絶妙にシンクロナイズした傑作だが、スーパーファミコンでリリースされた『喜国雅彦の雀闘士銅鑼王』(1993年)は、キクニさんのそんな麻雀コミック仕事の流れを汲むゲーム。
「聖闘士星矢」のパロディを軸に、奇天烈な雀士(十二宮ならぬ十二支にちなんだ面々)と次々に対戦してゆく二人打ち麻雀ゲーム。
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スーパーファミコンということで、さすがに「mahjongまんが王」で炸裂していた、「リー棒がないからちん棒で!」等のしょうもない下ネタは影を潜めているが、それでも登場キャラクターの中に、「徳川セックス禁止令」のサンドラ・ジュリアンをパロったキャラが出てくるなど、ところどころにキクニイズムの片鱗を垣間見ることができだろう。
立て続けに登場した続編『喜国雅彦の雀闘士銅鑼王2』は、一転「課長島耕作」や「なぜか笑介」などの企業戦士コミック化パロディの素材に。
イカサマ麻雀という基本線はそのままに展開する、相変わらずの50倍くらい薄めたキクニワールドに、こちらはまたもやスーファミゆえの制限と野暮さにモヤモヤする思いになるのだった。



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2014/12/05 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |